環境規制策定の際の社会的要因の大きさとは①

 電力中央研究所 社会経済研究所の杉山大志さんが(主にこの方が書き下ろしたものとお見受けする),「環境規制策定における科学・技術・社会要因」というタイトルで,自身の研究を取りまとめたものを公開している。→ココ 2003年に内部で取りまとめたものを,体裁を変えて公開したという流れらしい。
 日本の環境規制策定過程の事例分析を行い,基準値および法的拘束力を決定する科学的・技術的・社会要因を検討している。対象とした事例は,NOx,水銀,PCB,カドミウムトリクロロエチレン,テトラクロロエチレンの規制。これらの事例分析を踏まえ,また,他の事例も参照しつつ,総合的な考察を行っている。

 P.93からのトピックを数えると10コあるので,一日2,3個のペースで細切れに,少しずつ見ていきたいと思う。

「結論① 科学的知見は具体的な基準値の決定要因としては重要ではない」

基準値は科学的知見だけに基づいて決定されるものではない。科学的知見は規制の必要性を示唆するが,具体的な基準値の設定に関しては,非常に大きな幅を示唆するものに過ぎず,規制水準の決定要因としては不十分なものである。

現行の環境規制においては,…規制値を算出したプロセスが正直に報告されていないという問題点がある。

この問題点が存在する理由は,環境規制において技術(改→的)・政治的な配慮があったということを認めたくないプレーヤーが多いという(Salter 1988)の指摘(改→が示しているところである)

その後の文章は少し難解だけれど,たぶん,

[ステークホルダー①]規制当局は技術的・政治的な判断を下したと見られたくないし,[ステークホルダー②]被規制側も純粋なサイエンスで規制が行われていると信じたい,ということが技術的・政治的な論争を遠ざけたいとするのだろう

と述べたいのではないのだろうか?

  • これは個人的な感覚だけど,被規制者側は,規制値の根拠を知ろうとせずに,規制値に従っているという感じなのじゃないんだろうか?たとえば,企業的にはコンプライアンスを順守することこそ,健全な企業として当たり前のことだと思っているのだから,疑問をもつ前にYESマンになる。一般市民は,「国が作った値なのだから」と安心する。そんな構図なんじゃないんだろうか。
  • NOAELやLOAEL,BMDといった用量から,参照用量を導く際に用いる,"安全係数"という概念が,「科学的知見は具体的な基準値の決定要因」になっていない理由に挙げているけど,それがイコール「不確実係数の決定に,政治的配慮が反映されている」と言い切っていいのだろうか。「このデータセットなら,用いる不確実係数は○○だ」など,世界的にある程度コンセンサスのとれた大きさの不確実係数が用いられていると(個人的に)認識している。
  • しかし,日本の中でも,環境省の初期リスク評価書と,経産省の初期リスク評価書で,用いられている(MOEの算出の場合は「用いられている」ではなくて「想定されている」,もしくは「安全マージンとして用いられている」)不確実性が異なる,という現象が出ている,と聞いている。でもそれが,「政治的配慮の反映」とは,イコールでは結びつかないのではないか?

今回は長くなったので,1コで終わり。