講演会報告 食品に関わる化学物質の安全性とは?③(松永さん+中谷内さん)

3.松永和紀さんの発表
松永さんは,メディアが取り上げた食品問題のうち,汚染米事件と地下水のシアン汚染事件を取り上げて,メディアの功罪を説かれていた。
汚染米事件>

  • 事故米穀はどれほど「食の安全」を揺るがしたのか? 事故米穀とは4つの事件を総称して呼んでいる。まずは,①メタミドホス残留米(0.05ppm),②アセタミプリド残留米(0.03ppm)。両方ともに,ADIと比較するだけで健康影響の懸念がないことが分かる。③アフラトキシン汚染(最大50ppb)については,汚染された米からできた焼酎からはアフラトキシンが検出されておらず,心配はない。また,④カビ米という事例もあったが,リスクは不明。ちなみに,アフラトキシンを生産する華美ではないことが確認されているそうだ。よって,通常のカビなので心配はないとのこと。つまり,事故米穀=米食のリスク増加に直接関係する問題ではなかったようなのである。
  • 事故米穀問題において,メディアが犯した罪は二つあると松永さんは言う。①農薬のポジティブリスト制に対する無理解,②正式には事故米穀という名称で公表された事例であるにも関わらず,いつの間にか「汚染米」という名称にすり替え,定着させてしまった点だという。
  • 残留農薬が検出された前二つの事故米穀は,ポジティブリスト制によって新たな残留農薬としてリストアップされた化学物質だった。つまり,その報道がなされる直前まで,農家は何ら規制を受けることなく,その農薬を使っていた。急に制度が変わり,対応しきれずに残留基準を超過してしまったために大きな問題に発展した,というのが真相らしい。
  • 農水省など官公庁の公表では,メディアが使うような「汚染米」という呼び名ではなく,「事故米穀」という呼び名にしていた。メディアは目先のインパクトを取って言葉をすり替えた,とういうことらしい。これら報道のゆがみが農水省の混乱を招き,大きな問題へと発展していった。

<地下水のシアン汚染事件>
事件のいきさつはこうだ。

  • 伊藤ハムは地下水を浄化して約40年間使用していたが,シアンが水質基準を超えていたことが判明する。
  • 自主検査で基準超過した後も約20日にわたり,その地下水を使ってソーセージなどを製造していた(飲料水に適さない水の食品製造への使用)。
  • ただし,水質基準は0.01mg/L,測定最大値は0.037mg/L,また,製品からは検出されていないところを考えると,食品には全く問題がない程度であったこと。ちなみにシアンは自然に存在し,例えばWHOのガイドラインでは0.07mg,EU基準では0.05mg/Lに設定されている。
  • 伊藤ハムは1997年に一度,水道水使用を柏市に申請したものの,水不足になることを理由に拒否されていたらしい。
  • 今回の事態は,柏市保健所に相談,報告に行ったところ,思いがけなく公表を迫られたという背景があるようだ。それにより,自主回収→廃棄→業績が大幅に減少することになった。
  • 伊藤ハム」「回収」「シアン化合物」の見出しと共に,実は以下のような記述があったという。例にしていたのは10月26日の毎日新聞の記事。

専門家は今回の濃度について,「基準値の2〜3倍であれば,しびれや吐き気などで具合が悪くなることはない。…健康への影響はほとんどないのではないか」と指摘する。…シアン化合物の代表例は青酸カリや青酸ソーダ。血液の酸素運搬機能を阻害する猛毒の物質だ。今回,検出された化合物も同様の作用を持つ。中毒症状としては…」

環境中であればどこでも存在するシアン化合物の話から,いつの間にか青酸カリというインパクトの大きな物質の話へと知らない間に移り変わってしまっている。これはおかしい。
最終的にどうなったのか,本事例の帰結はこうだ。

  • 伊藤ハムが設置した第三者委員会の調査報告によると,地下水汚染はほぼ可能性ゼロとの結果になった。問題は事案塩素酸ナトリウムの添加量不足によるものだと推測され,これはつまり,公定法に問題があったとしている。
  • …しかし,実はさらに明らかになっていないことがあるのだという。伊藤ハムは以前から,事前に塩素酸がたびたび水質基準を超えていたのだそうだ。そのため,検査前だけ,基準値超過を回避するために次亜塩素酸ナトリウムの添加量を減らすという操作をしており,それがシアン化合物の水質基準値超過につながった。

これは何を意味しているか?一般消費者が思っている「基準値超過の地下水を使う,なんてひどい会社だ」という評価はもちろん論外。リスクの性質を良く理解している有識者たちの「リスクとして考えれば低いのに,伊藤ハムはなんてかわいそうな会社だ」という評価も間違っている!実は,伊藤ハムが日常から行っている水質調査のずさんさに対してフォーカスし,議論しなければならない問題だったのである。これは裏を返せば,新聞記者などのメディアの理解不足から来ているのだとバシッと斬る。
以上二つの事例について,要旨では以下のように簡潔に記述されている。

昨年発生した事故米穀問題においては,農薬残留米/アフラトキシンが基準を超えていた米/カビや虫がついた米という,リスクの違う米が存在した。にも関わらす,テレビや新聞は「汚染米」という言葉でひとくくりにし,残留基準は超えているがADIとの比較において健康リスクはないことがはっきりしている農薬残留米まで危険視し,社会の不安をあおってしまった。

化学物質のリスクが,量の大小によって大きく変わること,問題となった食品の多くは,基準越えではあっても日常的な摂取量では健康リスクにはつながらないことを,マスメディアは適切に報じることができない。また,犯罪,不正に対する怒り,批判と,食品の安全性確保の問題を混同し,「悪質な業者が関わった食品だから危険」というような短絡的な報道を行ってしまう。

科学的でない報道は,者気に様々な弊害を生じさせている。健康リスクのない食品が,企業イメージを守るために大量に回収廃棄され,農薬や食品添加物などに対する誤解は拡大している。また,微生物に起因する食中毒など,リスクが高く十分に警戒すべき課題対策が疎かになっている。

さて,なぜこのように複雑な問題をマスメディア理解できないのか。それは以下の3点が挙げられる。
(1)Google検索で上位にヒットした専門家のコメントを取る。Pubmedとかじゃない(報道に携わる情報筋より)。(井上:Googleで上位にヒット=いかにセンセーショナルな発言をしているかがそこに関わってくるから,そんな専門家からコメントをもらうようなことがあれば,新聞記事事態もセンセーショナルになる)
(2)最近の新聞記事は,インターネットで簡単に情報収集することができる。(各省庁のHPに出ているプレスリリースと有識者のコメントを融合させれば,それだけで記事になる)
(3)メディアは自社が存続するために利益を追い求めなければならないという側面がある。そのため,記事にセンセーショナリズムを持たせることはある意味必然だろう。でも,メディアは社会の課題であったり,俯瞰的なところを自覚しきれていないのではないだろうか。
さらに,食の安全問題には社会的背景が存在する。それが以下の4点。①「食」の軽視(井上:日ごろから人々には嗜好性や優先序列が各人に存在する),②メディアの寡占化(井上:基本的な情報を作るのは,各局の中央キー局),③科学教育の貧困,④科学メディアの不足。
最後に,日本で科学を伝えることの難しさと題して,2009年の科学ジャーナリスト大賞をとられた北村雄一さんの言葉が掲載されていた。これがまた,深い。

事実をそのまま伝えるよりも,むしろ人間が受け入れやすいように情報をねじ曲げる/あるいは改竄したほうがよく伝わる

つまり,センセーショナルにする,白黒はっきりつけるなど,読み手に対する科学情報の伝達効率の向上は,情報の質を落としている原因になっているということ,と僕は理解した。

サイエンスライターというのは,余計な仮定をそぎ落とし,仮説を選び,その検証を果てしなく繰り返す科学という営みと,効率的に繁殖する噂を作る作業との,ありうべからざる結婚を取り行う職業なのです。

実は,最後の文章を僕はよく分かっていない。分かる時がいつか来るのだろうか。


4.中谷内一也さんの発表
まず,中谷内さんが同志社大学に移られていたということで,ちょっとびっくり。でも,相変わらずプレゼンは上手で,リスク認知という分野に対する聴衆の興味を引き出してくれる発表だった。座長の本間正充さんも聞き入ってしまっていた。

  • 最近よく取り上げられている「安心・安全」の「・」はなんだ??なぜ,「安全」と「安心」をわざわざ並べて使っているのか?それは両者が全く別物だということを示しているのではないだろうか?ここから導かれる一つの答えとして,安全を高めればそれで安心社会となるわけではないということが言えるのではないか。
  • リスク心理学の出発といわれているのが,1970年代終わりにRisk Analysisに投稿された“How safe is safe enough ?”という論文。意訳すれば,「どこまで安全を高めれば,人々は安心してくれるのか?」となる。
  • 食品の安全に関して,どうやら「ここまで安全なら安心する」というレベルはなさそうである。というのも,我が国での食中毒死亡者数の推移をみれば分かる。

1960年前後(1959,1960,1961年の平均)0.27人/10万人
1980年前後(1979,1980,1981年の平均)0.017人/10万人
2000年前後(1999,2000,2001年の平均)0.004人/10万人

このように,「食の安全は高まっているのに,安心は低下している」ようなのである。安心が低下している理由を食品安全委員会設立の経緯に見ることができる。食品安全委員会設立の契機になったのは狂牛病問題である。では,我が国におけるBSEの感染者はいるのか,といえば,これまでに公式発表された中で,BSEによって死亡した人はいない。
その他にも,有害化学物質の環境濃度が低下していたり,交通事故死者数が減少していたり,天災の犠牲者が減少していたり,実は治安も悪化していないし,平均寿命も長くなっており,社会全体の安全レベルは向上している。しかし…不安は高まっているのを皆が感じている。ナゼ??
ここで,なぜ,信頼が安心に置き換え可能なのかを考えてみよう。以下の論理が成り立つのではないかと考えた。

現在の生活は,そのほとんどを外部依存化しており,専門・分業化が進んでいる。外食産業は大きく成長しており,自分で食事を作るだけではなく,外食をするのが生活の一部になっている。また,農作物を自分のできる範囲で育てるには,時間も労力も使うし,それ以上にノウハウがない。
よって,自分の安全は外部の専門家次第となる。
これが問いに対する答え。つまり,「安心社会には何が必要か?」に対する答えが「その安心社会を構成している,安全管理する専門家への信頼が必要」ということになる。さらに,「では,信頼には何が必要か?」という疑問が生まれる。

信頼は何によって導かれているのか?それに対し,Hovland & Weiss (1951)のイェール・コミュニケーション研究の紹介があった。うまく書き写せなかったので,原著を参考に表を再構築すると,

つまり,抗ヒスタミンを購入したいときに規律高い医学雑誌の情報を信頼するのか,大衆雑誌を信頼するのか,など,高信頼と低信頼の差はどういうところで生じているのかを示している。
伝統的モデルでずっと言われていることであるが,①能力因子=能力認知(専門知識,技術など),②公正→動機づけ認知(誠実さ,まじめさなど)が「信頼」に寄与していると考えられてきた。「第3者専門委員会の利用」などはまさに,これらの因子を満たすことで信頼に結び付けようとしている例。
しかし,この自明視されている①と②が信頼に結びついているとは思えない事例がある。
その例の一つが,阪神電鉄株大量取得によって,阪神タイガースを手中におさめようとした村上世彰氏。阪神タイガースファンはその買収に大反対した。じゃあ,上の①②の因子がそろっていないのかといえば,そうでもない。①に関して,無能か?と聞かれれば,村上氏はやり手だと答えるだろうし,②に関して,一生懸命にやらないのか?と聞かれれば,そうでもないと答えるだろう。これは推測だが,阪神タイガースを改革することで「利益の対象」とされることに,ファンは強い違和感を覚えたのではないか。
つまり,安全管理体制に対する人々の信頼を導くには伝統的モデルで重視される「能力認知」や「動機づけ認知」を改善するだけでは不十分だということが分かってきたのである。では,何がさらなる因子となるのかといえば,「③同じ価値を共有していること(価値類似性)」だと考えられる。ファンにとって,タイガースを応援することそれ自体に得失勘定はない。ただ,好きだから応援する。そこに村上氏の「得をすることを前面に押し出そうとする戦略」が一致しなかったのではないか。
では,信頼が何によって導かれるかを示す「伝統的モデル」が強調する要因①能力認知と②公正さ認知,に対し,SVSという新しいモデルが強調する因子③(価値類似性)のどちらが,より重みづけが大きいかを調査した(中谷内ら(2008)社会心理学研究,Vol.23)。これは,遺伝子組み換え作物である花粉症緩和米を材料に,責任省庁への信頼が何によって導かれているかを調査したもの。
考察によると,

信頼との結びつきは,
・文脈に対して高い関心を示す人にとっては③価値類似性が,
・文脈に対して低い関心を示す人にとっては②公正さが
強いことが示唆された。
さらに,①能力評価は③信頼との結びつきが弱いことが示唆された。研究者としての価値(科学的・技術的レベルの高さ)を押し付けても信頼は得られない,ということか。


そして,質疑応答時に出てきたのは,

  • 公正さ,価値類似性を高めるにはどうしたらよいか?

→難しい。(井上:ここが分かってくると,リスク評価がより根付きやすくなるのに…)

  • 化学物質のリスクコミュニケーションの時に,特に大事なことは何か?

→二つあると思う。一つは自主性。自身の信頼を高めるときに自分から自発的に行動することが支持される。たとえば,戦国時代に大名が戦をするために遠くに出向くとき,隣国の大名から人質を取る。その人質の差し出しを,どちらの大名が自主的に行うのかによって,差し出す大名に対する信頼度は変わってくるだろう。それと同じで,消費者よりも先に,企業は自主的に行動しなければならないということ。そしてもう一つは,企業が消費者の目指す目標と同じ方向を向いていること。(井上:なんとなくイメージがつきそうで,イメージがつかない感じだった。理解不足。)

  • 日本にリスク観が根付かないとよく言われるが,実際にそうなのか?

→そんなことはないだろう。実際にアメリカで日本と同様のリスク認知の結果が支持されるということは,その被験者である日本人も,アメリカ人も,認知の仕方が同じだということで,日本人が特に情緒的,感情的という話はデマだろう。